2010年02月09日

親父バンザイ PART1

「いま、なぜ白洲次郎なの」
と白洲正子が夫・次郎の十三回忌に自分に問うた。
その次郎の対話から拾った言葉。

手に職のあるのを職人といい
手に職のないのを芸術家という


このとらえどころのない言葉が私をとらえました。
何度も口にしてよみかえしているうちに、ある閃きが…。
そうだ、あの頃の…。


親父バンザイ PART1親父バンザイ PART1




1944年10月10日、いわゆる10・10空襲で那覇市は早朝から5波にわたる敵機グラマンの熾烈な空爆をうけ焦土と化し、その日に祖父伝来の金細工の道具すべてを焼失しましたが、父は三本の金槌だけはしっかり手にしていたといいます。




そして翌45年、米軍の沖縄上陸一ヶ月前に家族6人はモンペ姿の着のみ着のままで大分県に疎開。大戦終結の直前・直後ということもあって、がらんとした家には何もなく、例えて言えばかまどはあっても火がなく、食卓はあっても食べ物がない、そんな日々の暮らしでした。
手に職はあっても職のない、父も無為の春を過ごし、夏を迎えた…
かに思われましたが、ある日唐突に
「健坊、これを持って俺について来い」
と言った目の前には、ありえない筈のある物が置いてありました。
高さ60cmほど、横に50cmほどの円筒形の容器に銅のパイプが螺旋状に組み立てられた器具でした。
―当時中2の私にはこれがどう機能するのか分からない物体として、ただぼんやり見ていた記憶があります。
それから、それを持って私と父はひと山越えて隣の村里へ。
そこで、それをお米2斗に替えました。
いつ、どこで、どうやって造られたのか、それは白濁酒の蒸溜器だったのです。
手に職はなくても職を手する職人、それが金細工六代目の父でした。

唐行き又吉(とーちまたよし)を祖に、六代目の誠睦は
明治三十三年生まれ、大正、昭和、平成の四代の歴年を生きた琉球王朝の金細工(くがんぜーく)
最後の職人だったのではないだろうか。


それから職人の本領を発揮、ブリキのヤカンを造ったり、修理して、
「手に職のある者はどこにいても喰いはぐれのないこと」を実証。
おかげで白いご飯をいただけました。

1946年、帰郷。
島々は圧倒的物量で無差別攻撃を受けて木っ端微塵に爆破され、有形無形の文化は焼失しました。
しかし伝統工芸は焦土の中から自然発生的に芽をだします。
紅型は米軍のメリケン袋に型を染め、父・誠睦もまた、五尺たらずの小躯の
どこに秘められていたか、譜代の技が時代の形を作り出していきました。
今も語り草になっているその奇跡は、またのちの機会に…。

次回は「昔の祈りを今に」です。






※冒頭の白洲次郎はサンフランシスコ講和条約にあたり、誰よりも早く、誰よりも熱っぽく
 「沖縄よ、早く帰れ」と願い、基地オキナワを深く憂慮していた事実はあまり知られていない。



Posted by 風音 at 15:04│Comments(3)
この記事へのコメント
・・・色々な事を深く深く考えさせられます。
貴重なお話を有り難く思います。
Posted by 真夏 at 2010年02月10日 12:36
またよしさんの文章、とっても楽しみにしています。大切な、貴重なお話、たくさん聞かせてください。

愛さんと、結び指輪のおそろいになりました。
Posted by ぽかぽかハウス at 2010年02月16日 07:43
年賀状を頂きながら、年末年始と留守にしており、お返事も差し上げず申し訳ありませんでした。
昨日の地震は被害はありませんでしたか?
沖縄で震度5以上は99年振りだそうですのでさぞびっくりなさった事でしょう。
その上今日は津波警報もいるので心配ですね。
ブログいつも楽しみに拝見しています。
また、工房の風を心に満たしに伺いたいと思っています。
お大事に。
Posted by 綱   昌子 at 2010年02月28日 10:16
 
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